2012-04-30

みかけしな [漁港の立んぼう]

漁港周辺で生業を立てている人といえば、漁師や魚の仲買人が主役である。それ以外にも、食べ物や日用品を売る人も多く見られるし、漁港の管理・運営をする職員たちもいる。

漁港の主たる機能は、漁船が発着し水産物が水揚げされて、それらが売り買いされることにある。水揚げされた魚が一杯に金だらいに盛られ、それを仲買人や漁師が頭上に載せて運ぶ。魚の盛られたたらいは30Kgほどにもなるから、いかに足腰の強くバランス感覚の研ぎ澄まされた彼らでも両手で支えて運んでいる。高級魚を狙う延縄漁を営む漁師たちは大きな荷車を所有して、これにハタやタイなどの大きな魚を入れて運ぶこともある。これ以外にも頻繁に漁港内を往来する荷車があり、これは魚の冷蔵用に使われる氷を運ぶのに使われている。漁港内には製氷機が稼働しているが、漁師や仲買人の需要に対して供給が不足している。そのため、コトヌー市内にある製氷業者が配達する大きな長方形のブロック状の氷も購入されている。配達車から降ろされた氷は角材のように荷車に積み上げられて、もしくは二、三本をたらいにのせて運ばれていく。

このように、漁港では日常的に物を運ぶ必要があり、クレーンやフォーク車といったものなしに、人手に頼って運搬作業がなされている。そこで、注意して見ていると、漁師でも仲買人でもなく物運びをしている人足が何人かいる。このような仕事をしている人を何と呼ぶのか分からないのだが、先刻読んでいた国木田独歩の「窮死」という短編に「立んぼう(立坊)」という言葉が出てきて、短編集の注解には[坂などに立っていて、臨時に、通りかかった荷車のあと押しなどをして生活している人。]とある。デジタル大辞林にも、[明治から大正のころ、道端に立っていて、通りがかりの車の後押しをして駄賃をもらった人。]とある。

この漁港の立んぼうも、漁港の通路などに立っていて、荷物を運ぶような動きがあるところに近づいて、そこに手を差し伸べている。私には顔見知りの立んぼうが二人いて、二人とも筋骨隆々の漁師たちに負けず劣らずがたいが良い。ひとりは、コートジボワール人と自称する若者で明らかによそもの然としていて、もうひとりも口数が少なくスムーズな会話のできない浮いた存在である。国木田独歩の短編では、土方や立んぼうといった「下等な労働者」の様子と彼らの窮状さらにはある者は死に至るまでが描かれている。そのような仕事が、身体を資本にしながら身体を酷使する、不安定な雇用形態、本人が望む仕事でない、他人からも劣って評価される、などの理由で窮死する要因を孕んでいること、そのような職に就く人の立ち位置が既にもともと不安定で浮いていたりすることも描写されている。別に漁港の彼らを見ていて一見そのような悲壮感はない。彼らは窮死に描かれた土方や立んぼうとは違うのかもしれない。もしくはそれは私の観察の未熟さの所為かもしれないし、万全のセーフティーネットに慣れている者の想像力の欠如かもしれない。


運ぶ人たち:
一般に途上国では統計から漏れている経済活動が多くあり、これをインフォーマル・セクターなどと呼ぶらしい。コトヌーの街中でよく見かけるものには、雑貨の行商人、露天商、屋台、非登録のバイクタクシーなど数え切れず、むしろそちらが主流とも思われる。自分の生活とそういった経済活動の関わりについて少し思いを巡らしてみると、動く、運ぶ、という要素が含まれることが多い。鼻緒が切れたサンダルを修理しに靴屋がやってくる、職場で小腹が空いたときに食べたいお菓子を持ってくる、夕飯に使いたい玉ねぎを頭に載せて歩いている、レストランで食べているとCDを売りに隣にやってくる、信号で止まった車には玩具を売りにくる、(隊員は規則で禁止されているが)バイクタクシーで好きなところに乗り付けられる。日本よりずっと便利な気もする。町中の人が必死で、小売をしたり、お手伝いをしたり、物乞いをしたりするので、とにかく彼らは僕ら消費者のところにやってくる。

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